田中のおばさん

あくまでも個人の感想よ、言いたい放題だけど。

衝撃!タナオバ幼少時代

お久しぶり!!

 

サボるのが大の得意のおばさん、ごめんね、お待たせしたわー。

もうこのままお得意の「なんとなくフェードアウト」をかまそうと思ったけど、

何なのかしらね、ここ最近は本当にいろんなことがあって、

そのたびに「書きなさい」「書きなさい」「書けよコラ」「殺すぞ」的な

スピリチュアル的脅しを感じるのよね。

わかる人にはわかるだろうし、わからない人にとってみればとことん胡散臭い話。すいません。

 

メンタル強い人ならこれを

「天啓がありました!」

とか言っちゃえるんだろうけど、そこまで言い切る自信もない。

とはいえ不思議とメッセージをもらったり気になるワードが現れたりする。

まあでも一言で言っちゃえばそういう時期が来たのかも新米。

ただ書きたかっただけかも新米。

どっちでもいいけどとりあえず書く。

 

ほんでね、

どういうことかっと申しますと、

簡単に言うと、おばさんの幼少期の話ね。

ここから、ややこしくなるからおばさん=私にするわね。

 

私の母は看護師をしていたのだけれども、

父がとんでもないクズで、ちっとも働かなくて外でケンカしては警察に捕まって、

犯罪を犯しては帰ってこない、という人だったので

私が6歳、妹が2歳の時に母が離婚をして、

母の実家へ帰ってきたわけね。

 

でも実家には母の弟が結婚したばかりで子供を連れて戻るわけにもいかなくて、

実家の近くで居を構え、母は私と妹を抱えて母子家庭で暮らすことになったの。

看護師だったから収入はなんとかなったんだけど、

看護師って忙しいというか、夜勤があるのね。

当時私が小学校2年生と妹はまだ保育園児、

そんな私に妹を託して夜中に出ていく母。ザ・異常。

 

そりゃもう怖くて怖くてねえ。

スヤスヤ眠る妹の横で、

夜中に怖い人が包丁もってきたらどうしよう!とか

地震が来たらどうしよう!とか

いろんなこと考えては、ビビってた。

でも当時頼れる人もいないし、父の作った借金もあったから、母を責めるわけにもいかず。

それは世間の人も同じで、

幼子2人抱えて働く母はどっちかといえば称賛されてた。

私はわりとしっかりしていた子だったので、「がんばれ!」と励まされるw。

 

結果、幼女2人が夜中にお留守番w。

 

 

でも人間、慣れってすごいよね。

3日もたってなんにもなければ「全然ヨユー。」

1週間、1か月なんにもなければ、「これが普通」になっちゃうのよね。

仕方ない、当時はこれを異常と思うアンテナすら、誰も持ってなかったから。

 

 

そこから先、

母は私になんの遠慮もせずガンガン働くようになって。

妹の保育園のお迎えも私が担当。(当時はこれが許されていたw)

正直、妹は歩かなくてウザかったし、私は家でゲームしていたいときもあったから、

たまにお迎えをサボると、ご近所のおばさんがすっ飛んできて、

「お姉ちゃん!お迎え行かなきゃダメじゃない!」って

クレームが来たw ごめん妹wwww

 

 

食事は毎日牛丼とケンタッキーとピザのローテーション。

お腹がすいた!と怒ると、

「ごはんくらい自分で作れ!」と怒鳴る母。

家事は祖母がたまに洗濯をしに来てくれてたから助かったけど

まあ、洗わないこともあったかも。

お風呂も適当すぎたし、

服はお友達のおさがりか、2~3着のヘビロテ。

私たちは掃除もできなかったから家は四六時中ゴミ屋敷みたいだった。(しろよ掃除w)

ゴキブリやウジがわくのなんて日常茶飯事。

引っ越し当初は冷蔵庫がなくて

1日で野菜が全部腐って近所のおじさんに怒られたトラウマ。

私は今でもゴキブリが嫌いだけど

5匹以上いっぺんにゴキを見るとホント失神レベルで殺意がわくのでオススメできません。

※ちなみに大きくなってからはさすがに私たちが掃除しました。 

 

私が病気になっても机の上に1000円札が数枚置いてあるだけで

風邪をひいても中耳炎になっても、チャリで一人で小児科へ行く。

美容院も一人。

文房具店へも一人。

家電の修理も一人(笑)

当時、ワープロ壊して、「修理して来い!」って怒られて、

ワープロ担いで妹と2人でバス乗って行ったわ(笑) 懐かしい。

 

母はアル中かってくらい酒を飲んだから

体調を心配した妹と2人で酒を捨てることもあった。

ワインをベランダに流す妹w

母が死んだらどうしようっていう、子供の気持ちなんて全然伝わってない。

せっせとビールを買い込む母。(以下ループ)

 

土日ともなれば、私たちが家にいるとうるさくて眠れないということで、外に放出。

駄菓子屋さんで駄菓子を買って、図書館で開館から閉館まで一日中過ごす。

当時twitterがあれば即刻児童相談所扱いだったかも(笑)

そんな幼少時代。

 

中学に行っても、高校に行っても、

母は子供たちにはまったくの無関心。

私は自分でいうのもなんだけど、頑張り屋で根性があったので

「優良児童賞」っていう、学校で1人しかもらえない賞を頂いたんだけど、

周りがみんな親子で晴れ晴れしく参加する中、

母は「こんな賞状もらいに行くだけにめんどくさい。」

微塵も私の賞を喜ばなかった。

もちろん弁当なんてほとんど作らず、

私の弁当はいつもコンビニパン。

部活で使うシューズやウエアーも買ってもらえず、

いつもバイトでお金を貯めるからと、部活仲間に購入を待ってもらった。

高校へ通う自転車は死にたくなるレベルのポンコツ

サビついてずーっとずーっとギイギイ言って彼氏に笑われて死にたかった。

私が県外の大学に行くと、妹はまだ高校生なのに母は県外で単身赴任。

妹は高校生にして一人暮らし。

案の定妹にストーカーがつくも、母は帰ってこず

私が県外から帰ってきて妹の担任と一緒に見張りを数週間。

大学が終わって就職で実家へ戻ると言ったら

「は?あんたの住む部屋なんかないんだけど?

お願いだから帰ってこないで。」と言われる。

今まで何度涙を流したことか。

それでもうちは普通だと思っていた。思いたかった。

 

家族らしいイベントも全くなく、

クリスマスもお正月も、誕生日も、

テレビのなかの出来事だったし、ほかの家もやってないもんだと思ってた。

妹はどうしてもクリスマスツリーが欲しいと言って、

自分のお小遣いでクリスマスツリーを買ってきた。

 

そういう家庭だった。

 

言い出せばキリがないのだけれど

怒りもあきらめも通り越して、もう終わったことだし、

貧しい家庭環境の中で大学まで出してもらったのだから文句もない。(奨学金だけど)

 

何を言いたいのかというと

 

私は、世の中に、本当に、感謝しているということ。

 いい人ぶりたいわけじゃないけど、

大人になって、自分が子供を育てるようになって、

自分の育った環境が、いわゆる「プチネグレクト」だということを知った。(それも最近w)

ネグレクトでも、子供がわりとしっかりしてるバージョンだから、

そんなに問題にならなかっただけなような気もする。

母とはようやく決別し、いわゆるネグレクトの連鎖と言うものを、断ち切りたいと

新しい一歩を踏み出している。

 

私を育てたのは母が1割、あとの9割は世間の人たち。そう思う。

貧乏だったし、愛情は薄かったけど、大切なことは図書館が教えてくれたし、

友達や先生や、近所の人が惜しみなく手を差し伸べてくれた。

その中で学んだたくさんのことが、今の私を作っている。

その喜びを、伝えなくてはいけない。

 

なんかいきなり壮大になってるけど。ww

 

忙しい母が多いこれからの時代、

母のような母を増やさないためにも

社会が大きな手となって、子供たちを育てていかなくてはならない。

 

 そんなことをぼんやりと考えている。

 

私が子育てで苦労していること

これからの子育てで必要としていること

そんなことを書いていこうと思っています。

 

(まあ、またサボるかもしれないけどw)

 

 

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